次に図書館の扉を開けたとき、
空気のなかに、かすかに知っている匂いを感じた。
光の射し方も、時計の音も、前と変わらないはずなのに、
どこか、世界が少しだけ違って見えた。
ノアは、今日も奥の席に座っていた。
かのを見つけると、
ほんのわずかに、目元をやわらかくゆるめた。
それだけで、
かのの胸の奥に、またひとつ、小さな光がともった。
かのは、そっと手にしていた一冊の本を取り出した。
表紙はすこし色あせている。
小さな頃から、何度も読んできた、お気に入りの絵本だった。
「これ、ね。」
かのは、ノアにそっと本を見せる。
「わたし、ずっと好きだったんだ。」
ノアは、かのの手元に目を落とす。
しばらく無言のまま、指先で、そっと表紙をなぞった。
そして、ふいに、ぽつりとつぶやいた。
「……見たこと、あるかもしれない。」
心臓が、小さく跳ねた。
かのは、すぐに笑った。
笑って、ぐっと胸の奥に湧きあがる想いを押しとどめた。
「そうなんだ。きっと、どこかで、ね。」
それ以上、なにも訊かない。
いまは、
この小さな音を、大事に育てたかったから。
ふたりのあいだに、静かにページをめくる音だけが流れていった。
時計が、変わらず静かに、時を刻んでいる。
それは、焦らせるためじゃない。
いまここにある、このひとときを、
そっと見守るために、鳴っている音だった。
その日、たくさんの言葉は交わさなかった。
ページをめくる音と、
ときおり交わす、ほんの短い視線だけ。
けれど、そのすべてが、
かのには、奇跡みたいに思えた。
たとえノアの記憶が戻らなくても、
こうして同じ光の中にいられること。
それが、いまは何よりも大切だった。
帰り際、かのはふと、ノアに向かって手を振った。
小さな、小さな動きだった。
ノアは、一瞬戸惑ったように見えたけれど、
すぐに、ほんの少しだけ手を上げて返してくれた。
それだけで、かのの胸はいっぱいになった。
大きな時計が、変わらず静かに時を刻んでいる。
この世界は、あの日から何も変わらないふりをして、
でも確かに、ふたりだけの音を鳴らしはじめていた。

