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第2章 かすかな音

次に図書館の扉を開けたとき、
空気のなかに、かすかに知っている匂いを感じた。
光の射し方も、時計の音も、前と変わらないはずなのに、
どこか、世界が少しだけ違って見えた。

ノアは、今日も奥の席に座っていた。
かのを見つけると、
ほんのわずかに、目元をやわらかくゆるめた。

それだけで、
かのの胸の奥に、またひとつ、小さな光がともった。

かのは、そっと手にしていた一冊の本を取り出した。
表紙はすこし色あせている。
小さな頃から、何度も読んできた、お気に入りの絵本だった。

「これ、ね。」
かのは、ノアにそっと本を見せる。

「わたし、ずっと好きだったんだ。」

ノアは、かのの手元に目を落とす。
しばらく無言のまま、指先で、そっと表紙をなぞった。

そして、ふいに、ぽつりとつぶやいた。

「……見たこと、あるかもしれない。」

心臓が、小さく跳ねた。
かのは、すぐに笑った。
笑って、ぐっと胸の奥に湧きあがる想いを押しとどめた。

「そうなんだ。きっと、どこかで、ね。」

それ以上、なにも訊かない。
いまは、
この小さな音を、大事に育てたかったから。

ふたりのあいだに、静かにページをめくる音だけが流れていった。
時計が、変わらず静かに、時を刻んでいる。

それは、焦らせるためじゃない。
いまここにある、このひとときを、
そっと見守るために、鳴っている音だった。

その日、たくさんの言葉は交わさなかった。
ページをめくる音と、
ときおり交わす、ほんの短い視線だけ。

けれど、そのすべてが、
かのには、奇跡みたいに思えた。

たとえノアの記憶が戻らなくても、
こうして同じ光の中にいられること。
それが、いまは何よりも大切だった。

帰り際、かのはふと、ノアに向かって手を振った。
小さな、小さな動きだった。

ノアは、一瞬戸惑ったように見えたけれど、
すぐに、ほんの少しだけ手を上げて返してくれた。

それだけで、かのの胸はいっぱいになった。

大きな時計が、変わらず静かに時を刻んでいる。
この世界は、あの日から何も変わらないふりをして、
でも確かに、ふたりだけの音を鳴らしはじめていた。

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